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●昭和15年12月22日 この世にお邪魔する。

 疎開先長野県川中島村にて小4まで遊び(小4時、校内大会でドッジボールの選手となり、学年優勝の後、5・6年の優勝チームをやっつけ全校優勝した)、小5から練馬に転校し、喧嘩の日々(今でいうイジメにあったようである。が、毎日たくましく戦った)、中学からは、卓球を始めた。

●昭和41年

 東京歯科大学卒業。新宿のY歯科医院に勤務、同年12月退職。落ち込んでいた所に勧められて、スキーを初歩から始める。スカディというクラブで指導を受ける。愛知和夫衆議院議員はスキーの先生。

●昭和42年

 1月から3月まで、長野日赤歯科に臨時勤務。スキー、麻雀、競馬に明け暮れる。

●昭和45年

 京都O歯科に後輩のトレーナーとして勤務。酒と酒の日々。 神田黒門町の某歯科(東北歯科大学創設者の)に勤務するも、クビになる。

●昭和46年

 父の診療所を継ぎ、7年後、弟と交代する。

●昭和53年

 銀座のS氏の診療所に息子のトレーナーとして勤務。

●昭和54年

 練馬区高松に開業し現在に至る。

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◆練馬区歯科医師会公衆衛生担当理事2期4年

 それまで誰もやり手がなかった公衆衛生担当理事職を人気化してしまったようである。歯科議員懇談会を設置したり、区との折衝を華々しくやった結果「カッコイイ」所管にしてしまい、以後向いていない馬鹿がやりたがってせっかく方向づけしたのに、どうしようもない状態になってしまった。歯科問題検討議員懇談会を起こしたことが失敗だったとは・・・歯科医師会なんて所はそんなものである。私は排除されたことは言うまでもない。

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◆日本歯科医師会広報委員(15年程)

 平穏無事な委員でなかったことは確かである。「歯科界はよくならない」という形で情報提供していきます。中原執行部発足時、お役目ご免。
 ここで、卒業時の誓い(社会に出たら、歯科医師とか、同窓会一切係わりを持つまい。俺は一生、競馬、麻雀で自堕落に過ごすのだという)を棚から下ろし、手を洗いかけた。
 しかし、親友に「純然たる会員のためになる施策を検討、実行したい」と頼まれ、「歯科医業環境改善検討委員会」を設置し、「そのための予算の確保=(有)NEDA設立構想」を作成し、その間に「歯科材料価格調査」「診療室改装のマニュアル」「新入会員のためのオリエンテション」を発行した。しかし、やり過ぎたようで(理事がついてこられなかった、理解ができなかった)、2年で解散されてしまった。当初から、最初に委員長を決め、理事と委員長で人選し、有能な会員を指名して委員会を作ったこと自体画期的だった。時の執行部は、この委員会の設置を「目玉」とも思わなかったようである。
 翌年、練馬区歯科医師会会報編集委員となり、「遊んでいるんじゃねぇ」と又やり、任期最後の企画で「もし特別措置法が撤廃されたら」というテーマを出し特集を組み、土壇場で「没」にされた。それをいい機会に、歯科医師会、同窓会から「手を、足をあらい」一切委員、役員をしないことにして現在に至る。改革、改善を嫌う所に私は不要と云うことである。
 その後、「ODAの案件に歯科保険医療を」という企画書の作成を頼まれ、外務省と接触、1954年ODAが始まって以来、歯科では初めての「スリランカの歯科大学の再建」が予算化され、現在進行中。当初、援助要請の優先順位という点で難しいといわれたが、説得は簡単「今年は世界口腔保健年の始まりの年ですよ」すると外務省の担当官は「それは最高の説得です。多分いけるでしょう。日歯の運動があれば万全です。」日歯に行き動くように話をしたが、日歯は動かず、MとI、厚生省も日歯を外したがり・・・・。日歯は「又と無いチャンス」を自ら放棄したのである。
 この一件で、歯医者と付き合うのは絶対ゴメンだと心底思った。サッパリもした。
 ところが、ある後輩が、「レセコンが高すぎる、お粗末すぎる・・・・と言って、優秀なプログラマーが傍にいる、我々の手で開発して、安くて良いものを世に出しましょう。歯科医師をカモするような業界を叩きましょう」と私のところにやって来た。私の持病が再発し、現在に至っている。話を持って来た後輩は41歳にして、癌で他界している。

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◆スポーツ歴

 中学から卓球を始め、高校で同好会から部昇格を果たし、大学では伝統日本一の卓球部の再建に取り組み、成功するも、今年廃部になった。名選手ではなく名コーチの類である。

 ゴルフは少しやったが、今はやっていない。手許にあるのは。ヒッコリーのパターと金のパターの二本だけである。うまくなりたい奴は俺のところにこいと言っても誰も来ない。一人だけアドバイスをしてくれと言われて能書きをたれたことがある。
 まだ、ゴルフを見たこともない時、先輩達のゴルフ談義の中で、黙っていられなくなり、「フォロースルー」の意義について、ひとくさりやって黙らしたことがある。
 最近、体育が全くダメな子にスキーを教え、2回の土日を使っての指導で滑れるようにした。指導にはコツがある。良い形を押し付けることが指導ではない。どうやって、そこにもっていくかが指導のポイントである。
 逆立ちは試験のとき、まぐれで出来ただけ(一生に一回の3秒間だった)。水泳はできない。小学校4年まで、川に飛び込み、バタバタしていたが、上京して以来、泳いだこともなく、ひまもなく大きくなってしまった。従って泳げない。頭から飛び込むことだけはできる。足からは恐くて飛び込めない。皆、変だと言うが、そうだから仕方がない。
 バレーボールでは、変化球サービス(バックスピン、スランティングスピン)をやった最初の人間である(昭和32、33年)と自分では思っている。お見合いボールやコート外に大きく外れたボールを拾うのが得意。
 ソフトボールは、中学の時、ピッチャーで東京都大会に出場し、滅多打ちにあう。歯科医師会の大会では、野球部の強打者を全員三振にした。
 野球は、ゴロに弱く、外野専門で、守備範囲は広い(初動の速さは卓球のおかげで抜群)。投球の基本を知ったのは40代だった。バッティングはダメだったが、今は自信がある。といっても野球がやれる年ではないので、巨人のバッティングコーチぐらいしか務まらない。「やってくれ」となかなか行ってこないので、歯医者をやっている。
 軟式テニスでは、2週間の特訓を受け、テニス部のメンバー補充要員として都大会の前衛として出場し、3回戦まで進んだことが有る。大学時代校内大会で、2年連続優勝している(テニス部のエースを破って)。
 バトミントンでは卓球に類似してるため、得意。高3全員勝ち抜き、最後教官とやって小技にあい、やられた。


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◆ボランティア活動

 昭和54年から、毎年、日本点字図書館のためのチャリティコンサートを主催し、25年経った。一流の音楽家に協力してもらい、純益を寄付する形。ただし、私はクラシックに興味なく、場内に入って演奏を聴いた事はない。26回目も決まり、27回も決まった。29回はニューヨークの小曽根さんに、30回はかみさんのおばの口利きで小沢征爾で華やかにやり打ち止めにしようとしていた所、急遽25回でおしまいと云うことになり、実行委員会を解散しました。

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◆地域活動
 ①練馬区が進めようとした練馬駅周辺の再開発事業の実態を把握し、紙の弾丸(広報活動)で阻止した。当問題に取り組むに際し、数回の勉強会(合宿)に参加し勉強もした。

 ②地下鉄12号線の建設に際し、住民運動体で、常任理事(5人衆)を勤め、地域の要望を受け入れさせる形で成功している。用地買収、工事中、工事後の補償問題、静かで安全な工事対策等が課題でした。
 保守とは言いながら、本当は左翼バリバリじゃあないのか・・・・と陰口を叩かれている。練馬区役所では地域活動家と云うことになっているそうである。

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◆飲む

 スコッチウィスキー/シングルモルトに興味を持ち、入手しづらいものを集めている。現在80本。限定100樽の話にのり、「The Arran Circle」を一樽買った。2003年にビンテイジ。
 梅酒を焼酎ではなく、ウォッカでもなく、ウィスキーで作るとどうなるか。1年ものを開けて飲んでみた。評判はいい。色々テストしたが、バーボンのフォアロゼ・ブラックで作ったものが良い味と云うことになった。

◆打つ
 パチンコは絶対損しない。麻雀は気を抜くことと、一寸行って見ようと云う降りることが嫌いな性格が災いして良くやられている。今春辞めた。競馬は最近やっていない。

◆買う

 女に金使うなら、競馬ですり、麻雀で負ける方が価値あると思っている。無論バー等には行かない。バーやクラブの評判で歯医者が極端に悪い。困ったものだ。俺一人では挽回出来ない程である。